気ままに山と歌を楽しむ・
  中島仁志さん

   
山楽の仲間(5)
  
掲載日: 2006年11月23日

そぶがたけ(兵庫県)

高崎うたごえにて(2006.4.2)

 当初のタイトルは「歌を愛する山男」のつもりでした。ところが、中島さんは、いわゆる山の歌はあまり好きでないとのこと。たとえば、雪山讃歌の4番から6番などは自然を冒涜する詩で、これを正気で歌えるのは山歩きをやめる時だとおっしゃっておられました。今回のインタビユーで中島さんの知られざる一面を少し垣間見たような気がします。その一途さは少年のごとくです。少年のまま大人になった人とでも言えるほど・・。
 「さて、何からお話ししましようか?」と言いながらMDのスイッチを押しましたら、あの大きい身体を縮める感じで、「やはり緊張します」と、おっしゃる姿はかわいらしくさえありました

 
Q 私は「みちのくシリーズ」山行(平成9年9月)に参加してから、中島さんとお話するようになりました。
A そうですね。それ以前は顔を合わせてもほとんど話はしなかったですね。あれは、南八甲田の櫛ケ峰でした。
Q 帰りのバスが途中で休憩したとき、ワンカップを買ってきて飲んでいらっしゃいましたが、お酒が好きなんですか?
A そうでしたか?憶えていませんけど。今は、あのようには飲みません。
Q 体に悪いから飲まないんですか?それとも飲めなくなったんですか?
A 全然飲まなくなったというわけではありません。今こうして、ビールをジョッキで飲んでいるくらいですから。酒量を落としたのは脳梗塞で倒れて入院してからですよ。もっとも私は元来は飲める部類ではないんです。
Q  えっ? 中島さんは飲めない方ですか?
A そうです。元来はそれほど飲めない人が慣れて飲むようになると、それが蓄積されてきて50歳前後で何らかの後遺症が出てくるそうです。私が脳梗塞で倒れたのも、それを証明しているようなものです。何でそれほど飲むようになったかというと、それは深田クラブに入ってからなんです。
Q 別名「深酒クラブ」と云われるのは本当ですか?
A そうですよ。昭和62年の総会の時が初めてですが、皆さんの酒量には驚きましたね。そのうえ深田クラブに入ってから親しくなった寺坂さんが、酒には底なしでしたから。あの方は、まさに飲める部類の人だったんですね。
Q それでは、中島さんの「山と歌」について聞かせてください。いつ頃から始められたのですか?
A きっかけは別ですが、自分で山歩きを始めたのと、古い流行歌をおぼえだしたのは中学3年後半頃です。
Q それでは、山と歌への興味が同時進行したんですね
A 同時進行ではないと思いますが、始まりは同じ頃ですね。

Q まず山の方からお願いします
A 中学2年の時、父から高尾山に誘われたときに、最初はどうやって断ろうかと思った。でも断る理由がでてこなかったので、仕方なくつきあって行ったら意外と面白かった。その半年後、奥多摩の大嶽山に連れて行ってもらい、これも楽しかった。その理由を振りかえると、学校の遠足では多人数でただゾロゾロ歩いていたのが、父・妹と3人だけ。しかも父と地図を開いて周囲の山を追った。そのあたりが山に関心を持ったポイントだったと思います。
 そして翌年受験期で精神的にまいっていた10月頃、友人とどこか山に行ってみようかという話になり、前年歩いた大嶽山にもう一度行くことに決めて、ガイドブック・地図を見ながら自分でスケジユールを立てて登ったわけです。
Q それがまた楽しかったんですね
A 楽しいというより、自分の力でやったというのが大きかったと思います。連れて行ってもらうのが、あまり好きでなかったようですね。
Q そのへんがちょっと面白い。
A 皆がやるからやるという人も少なくないようだけど、私は皆がやらないことに妙に関心を持つようです。 古い流行歌に興味を持ったのも、たまたまこの頃に見た「懐かしの歌声」というテレビ番組で霧島昇の「旅の夜風」やいろいろな古い流行歌手の歌を見て、ああいう歌い方ができればいいなと思った。当時の友人で、このような歌や歌手に関心を持った人なんかいませんから。

 次から次へと話はつきません。午後2時から4時まで中島さんがサポーターをしている高崎の1日歌声喫茶で一緒に歌い、その後4時半から8時頃まで高崎市役所21階レストランで話し続けました。その時考えたタイトルの「頑固に筋を通す人」を証明するような話に持っていけなかったのは残念ですが、それは、会報に書かれたものを読まれた方々がそれぞれお感じになられることと思います。何はともあれ、私は学生時代に戻った気分で、気の会う友と語り明かしたような満足感でいっぱいでした。
 (作成者 渡辺恵美子)