深田久弥・人と作品


深田久弥終焉の地・茅ヶ岳
 深田久弥は1903年(明治36年)石川県江沼郡大聖寺町字中町76番地(現、加賀市大聖寺中町73番地)に深田家の長男として生まれた。 錦城小学校を卒業後、1916年(大正5年)母の故郷である福井県立福井中学校に入学。この頃から大聖寺の先輩稲坂謙三の影響で、大聖寺近辺の山に登り始める。
 1921年(大正10年)3月、福井中学校を卒業して金沢の第四高等学校を受験するが失敗。翌年の大正11年3月、第一高等学校の受験に合格し、4月に上京して寄宿舎生活に入る。
 ボートや柔道の選手として活躍するが、その後は文芸部の委員となり、運動部から離れる。幼少の頃に覚えた登山は、一高旅行部の先輩である浜田和雄(のちの植物学者田辺和雄)の影響で熱が入り、盛んに登山を行うようになる。

 1926年(大正15年)4月、一高を卒業して東京帝国大学文学部哲学科に入学。引き続き登山に熱を入れるが、第九次「新思潮」を通じて文学に専念する。1928年(昭和3年)、「新思潮」11月号に発表した小説「実録武人鑑」が横光利一の賞賛を得る。
 前年に帝大在学中の身で改造社編集部員の募集に応じ、採用される。編集部に勤務中、改造社の懸賞小説に応募してきた北畠八穂の作品に惹かれた深田久弥は、その後八穂と生活を共にするようになり、1930年(昭和5年)「オロッコの娘」を「文芸春秋」に発表して文壇の注目を得る。
 
 この年、改造社編集部を辞めるとともに帝大も中退し、作家生活の道を歩む。1932年(昭和7年)には鎌倉に移って、以後鎌倉文壇人の一人として活躍することになる。
 この頃の作品には『わが山山』『山岳展望』『津軽の野づら』『鎌倉夫人』など多くの著作がある。
 1944年(昭和19年)応召。中支を転戦した後、昭和21年に復員。その後八穂と別れ、昔一高生の頃見初めた木庭志げ子と結婚する。
 戦後は越後湯沢、郷里の大聖寺、金沢と移り住み、中央の文壇から離れるが、一方ヒマラヤの研究に力を注ぐ。雑誌「岳人」にヒマラヤの連載を続け、『ヒマラヤ―山と人―』『ヒマラヤの高峰』など多くの著書を出版し、1955年(昭和30年)にジュガール・ヒマール、ランタン・ヒマール探査にも出かけた。

 雑誌「山と高原」に連載してきた「日本百名山」が昭和39年、新潮社から出版され、翌年第16回読売文学賞の論評・伝記賞部門を受賞すると、『日本百名山』の人気は年を追うごとに高まり、また、百の名山を目指す登山者が急増し、NHKテレビで放映された後は一般の人にも日本の自然に眼を向けさせる原動力となった。
 
1971年(昭和46年)3月21日、茅ケ岳を登山中、脳卒中のため急逝した。68歳だった。毎年3月から4月にかけて深田久弥を偲び、韮崎の深田記念公園で深田祭が、郷里の大聖寺江沼神社境内で久弥祭が行われている。